Introduction

誕生日も知らない、戸籍もない少年ゼイン。
両親を告訴するに至るまでの痛切な思いが心を揺さぶる――
全世界へと広がり続けている絶賛の波が、
ついに日本へ押し寄せる!!
苛烈なまでの中東の貧困と移民の問題に、一歩もひるむことなく果敢に挑んだ監督は、レバノンで生まれ育ったナディーン・ラバキー。監督・脚本・主演を務めたデビュー作『キャラメル』が、いきなりカンヌ国際映画祭の監督週間で上映された逸材だ。本年度のカンヌ国際映画祭「ある視点」部門審査委員長にも就任し、今やその才能の輝きはとどまるところを知らない。リサーチ期間に3年を費やし、監督が目撃し経験した事を盛り込んでフィクションに仕上げた。主人公ゼインを始め出演者のほとんどは、演じる役柄によく似た境遇にある素人を集めた。感情を「ありのまま」に出して自分自身を生きてもらい、彼らが体験する出来事を演出するという手法をとった結果、リアリティを突き詰めながらも、ドキュメンタリーとは異なる“物語の強さ”を観る者の心に深く刻み込む。社会の非人道的な深みに設定を置きながらも究極的に希望に満ちた本作は、「何か行動をしなければ」と強く思うほどに心をかき乱すが、中東のスラムという、日本からは地理的・心情的に遥か遠い地域を舞台にしながらも、少年の成長物語という普遍性が魂の共鳴をもたらしてくれる。 ゼインが求めているもの、それはすべての子供たちにあるはずの〈愛される権利〉。その権利を手にするまでの長い旅路に胸を締めつけられながらも、一筋の光を求めて、新たなる出発の無事と幸運を祈らずにはいられない慟哭の物語。

Story

わずか12歳で、裁判を起こしたゼイン。訴えた相手は、自分の両親だ。裁判長から、「何の罪で?」と聞かれたゼインは、まっすぐ前を見つめて「僕を産んだ罪」と答えた。中東の貧民窟に生まれたゼインは、両親が出生届を出さなかったために、自分の誕生日も知らないし、法的には社会に存在すらしていない。学校へ通うこともなく、兄妹たちと路上で物を売るなど、朝から晩まで両親に劣悪な労働を強いられていた。唯一の支えだった大切な妹が11歳で強制結婚させられ、怒りと悲しみから家を飛び出したゼインを待っていたのは、さらに過酷な“現実”だった。果たしてゼインの未来は―。

Cast Profile

ゼイン・アル=ラフィーア
ZAIN AL PAFEEA
ゼイン役
2004年10月10日シリアのダルアー、東マリハで生まれる。
シリア内戦の軍事的対立のため、2012年以来教育を受けることができず、その年、国内情勢の治安悪化により、家族でレバノンへ逃れた。シリア難民として、ベイルートでは、一般の教育になじめず、家庭教師から一貫性のない教育を受けることになる。貧しい生活をおくり、10歳の時からスーパーマーケットの配達をする仕事を含む多くの仕事で、家計を助けた。2018年8月、国連難民機関の助けを借りて、ノルウェーへの第三国定住が承認され、家族とともに移住している。
【キャスティング】
2016年に、ベイルートの住宅地で子供たちの集団の中で本作のキャスティング・ディレクターの目に留まった。ゼインの中に潜むウィットを含んだ柔らかくてシャープな素質と、その心を奪われるようなカリスマ性が直ちに見抜かれた。まさに監督のナディーン・ラバキーが探していた「宝石」である。
<ゼインについて>ラバキー監督コメント
「私がゼインを初めて見たとき、彼が私たちのヒーローになるだろうということは非常に明白でした。彼の目にはとても悲しい部分があります。彼はまた、私たちが話していることを(映画の中で)理解しています、同じような境遇だからです。そしてそれは彼の目に現れ、映画にその力を最終的に与えてくれました。私の映画には俳優はいません。彼ら全員は彼ら自身の役割、彼ら自身の人生を演じています。彼らは皆、自分たちの生活を何らかの方法で、彼らの闘い、彼らの窮状を描いているのです。また、ゼインは撮影中に何度か即興で自分の言葉を脚本に加えました。ゼインは彼自身の名前をかろうじて書くことができます、それでも彼は彼自身の表現、言葉と行為さえも加えました。それらのすべてはとても自然なもので、そして場面をさらに強くしました」
ヨルダノス・シフェラウ
YORDANOS SHIFERAW
ラヒル・シファラ役(ティゲスト・アイロ)
エリトリアの首都であるアスマラで生まれた(生まれた年は、80年代末から90年代初めの間)。彼女の母親が、徒歩での険しく長い旅路の果てに死んでしまった後、エチオピアのデブレゼイトにある難民キャンプで幼少を過ごす。彼女の父親は、彼女と短期間一緒に暮らした後、戦争の古傷で死んでしまった。その後、数年間の間、4人の姉妹から引き裂かれ、常に移動する日々であった。教育を受けることはなく、ホームレスの時は、路上で靴磨きや駐車メーター係などの仕事をし、まだ若い頃から大人にならざるを得なかった。20歳になった頃、彼女の姉妹がベイルートで住み込みのお手伝いをしていることを知る。彼女もお手伝いとして雇われるが、やがて雇い主の下から逃げ、その後も国内で違法に働き続けた。映画の物語と同様、本作品撮影中の2016年12月に不法移民として逮捕され、拘束されてしまうが、のちにナディーン・ラバキー監督が保証人となり、釈放された。
【キャスティング】
2016年に、本作のキャスティング・ディレクターに声をかけられる。そこで、自分の苦悩や、保護者のいない子供を助けたいという自分の夢について打ち明ける。
ボルワティフ・トレジャー・バンコレ
BOLUWATIFE TREASURE BANKOLE
ヨナス役
2015年11月21日マウントレバノン生まれ。
トレジャーの父親オルイェミ・ダミロラ・バンコーレ(ナイジェリアのイケジ・アラケジ出身)は、2014年にレバノンで、トレジャーの母親ローズマリー・カランジョ(ケニアのコマロック出身)と出会う。トレジャーは、2015年11月21日に山岳レバノン県のジャール・エル・ディブにあるアブー・ジャウド院で生まれる。両親は清掃業の契約でレバノンに入国したものの、父親はアンダーグラウンドのアフリカ音楽シーンでDJ業を始め、母親は主婦として娘の面倒を見ていた。家族は、度々直面する人種差別を逃れるために、家を転々とする生活を送っていた。2015年には、ベイルートのナバアに移住し、2016年に本作のキャスティング・ディレクターと出会う。2016年末の撮影真っただ中に、トレジャーの両親は逮捕されてしまう。ちょうどその頃、トレジャーの演じるヨナス(1歳)が母親を失うところを撮影していた。映画の撮影隊は立ち上がり、「彼らを釈放させ、安全に国を去るための時間を与えて欲しい」と公安機関に訴えた。家族は、2018年3月6日に国外退去させられた。トレジャーと母親はケニアに戻り、ナイジェリアに帰国した父親とは離れ離れになっている。もし状況が許すならば、いつか家族一緒に生活したいと願っている。
カウサル・アル=ハッダード
KAWTHAR AL HADDAD
スアード(ゼインの母役)
1972年にレバノンのトリポリ、ワディ・カレドで生まれる。
両親と6人のきょうだいたちと共にクウェートに移住するが、1975年にその移住先で父親は亡くなってしまう。彼らは、クウェート侵攻が発生した(イラクによる侵攻)1990年に家族でベイルートに戻る。レバノンの第二級身分証明書を保持し、「第二級市民」として扱われている。もともとは、勉強をして医者になるのが夢であったが、結局は学校を中退して、母親の手伝いをしなければならなかった。1999年には、ヤッサー・イッサと結婚した。ヤッサーも同様、完全に国民としては認められていない身分であった。以来、2人の息子がまともな教育、健康保険、予防接種を受けられるように正式な国籍登録を行おうとしているが、なかなかうまくいかない。家政婦として働きながら、他の低賃金の仕事も掛け持ちして家計を支えてきた。2016年、ベイルートのワタ・エル・ムサイビで亡くなった兄弟の子供たちのお世話をしている時に、本作のキャスティング・ディレクターと出会う。
ファーディー・カーメル・ユーセフ
FADI KAMEL YOUSSEF
セリーム(ゼインの父役)
1971年3月21日にレバノン・ベイルートで生まれる。
両親の離婚によりトラブルに見舞われ、10代の頃はあらゆる所で根無し草のような生活を送っていた。5年生の時に中退している。1994年バイク事故により、足を負傷し、病院の治療費の請求書を受け取った際、お金が足りずに自殺未遂を起こす。11歳の頃からあらゆる仕事をしており、12年間タクシードライバーを勤め、最近では彼の住む町でカフェのオーナーをしていた。2006年の戦争中に結婚、2014年に第一子が産まれた。2017年の夏の撮影後、自分の生活を変えようと思い厚生施設に参加する。
キャスティングのインタビュー中、“自分は、貧困層の大使であり、ビルの屋根や岩の上、路上などで寝る事もしばしあった”と自分の過去を思い出し語っていた。
シドラ・イザーム
CEDRA IZAM
サハル役
2004年に、父親の故郷のシリアのアレッポで生まれる。
2012年にレバノンに移り、両親と4人の兄弟と共にベイルートで生活を始めた。2014年には、姉が海で溺死した。2016年に妹が産まれ、両親はその子に姉の名を付けた。シリアの学校に通っていたが、ベイルートで違う人生がある事を知った。2014年、不法滞在の父親に家族の援助を頼まれ、ベイルートの道端でチューイングガムを売っていた。そして2016年にキャスティング・ディレクターの目に留まった。
アラーア・シュシュニーヤ
ALAA CHOUCHNIEH
アスプロ役
1979年9月17日にアラブ首長国連邦のアブダビで生まれる。
1990年イエメン戦争中にベイルートに移るまで、イエメンで育った。彼はパレスチナとレバノンの二つの国籍を持っている。レバノンでは、経済的理由により、両親に退学させられる4年生迄は、国際連合パレスチナ難民救済事業機関の学校で授業を受けていた。その後は、指揮官によって裏切られて逮捕、5年間服役するまで彼自身が働いていた身辺警備(個人保護)の政党に関与していた。
“私は、木に葉っぱがあるより、逮捕状を持っている”と、2016年にキャスティング・ディレクターが会った時に、そう話していた。
2018年に、ベイルートのJalloulに食べ物と飲み物を売るキオスクをオープンした。

Staff Profile

【フィルモグラフィ】
2007年-『キャラメル』
2011年-『Et maintenant on va où?(原題)』
2011年-『Where Do We Go Now?(英題)』
2014年-『リオ、アイラブユー』
2014年-「O Milagre(原題)」<未>
監督・脚本・出演:ナディーン・ラバキ―
Nadine Labaki
1974年2月18日レバノン、ベイルートで生まれ、内戦の真っただ中に育つ。
1997年にベイルートにあるベイルート・サンジョセフ大学にてオーディオ・ビジュアル学で学位を取得。卒業後は早速、テレビのコマーシャルや地域で有名なアーティストのミュージック・ビデオ等を監督し始め、いくつかの賞を受賞。
2005年にはカンヌ国際映画祭の主催する「レジダンス」制度に参加し、ベイルートを舞台にした初めての長編映画『キャラメル』の脚本を執筆した。彼女自身がメガホンを取り、主演も果たした。2007年のカンヌ国際映画祭での監督週間にて初上映され、ユース審査員賞を受賞。さらに、サンセバスチャン映画祭では、観客賞を受賞した。『キャラメル』は、60か国以上の国で上映された。2008年には、フランスの文化・通信省より、芸術文化勲章を授与される。ナディーンの長編映画第二段『Where Do We Go Now?(英題)』でも、脚本/監督/出演をこなした。この作品はカンヌ国際映画祭の「ある視点」部門にて上映され、エキュメニカル審査員スペシャル・メンションを受賞。さらに、2012年のサンダンス映画祭に上映される前に、トロント国際映画祭では観客賞を、サンセバスチャン映画祭でも観客賞を受賞。ロサンゼルス映画批評家協会賞の最優秀外国作品賞にノミネートされ、レバノンでの興行成績がアラブ映画として歴代一位。2014年には、『リオ、アイラブユー』を監督。都市をテーマにしたオムニバス映画シリーズの一環である。彼女が監督し、脚本は共同執筆した。自身も出演し、ハーヴェイ・カイテルと共演している。
役者としては、フランスのフレッド・カヴァイエ監督の『友よ、さらばと言おう』(2014)、グザヴィエ・ボーヴォワ監督の『チャップリンからの贈り物』(2014)、また、レバノン出身の監督ジョージ・ハシェムの『Stray Bullet(原題)』(2007)、モロッコ出身の監督レイラ・マラクシの『Rock the Casbah(原題)』(2013)など。本作ではゼインの弁護士役として出演している。
プロデューサー・音楽:ハーレド・ムザンナル
Khaled Mouzanar
1974年9月27日生まれ。レバノン音楽の作曲家、歌手、プロデューサー。
幾つかの映画音楽を作曲、2008年には、歌手兼作曲家として初のソロアルバム「Les Champs Arides」を発売。クラシック、ジャズ、地中海、東洋音楽等にあらゆるジャンルに精通し、ブラジルのショーロ、アルゼンチンタンゴ等に影響を受けている。
映画音楽の最初のプロとしての作品は、2005年に撮影された『After Shave』。2006年のセザール賞で最優秀短編賞を受賞する。2007年にNaïve Recordsというフランスの独立レコード会社とのソロアルバムを契約、その後、ナディーン・ラバキー監督の『キャラメル』の音楽を担当。2008年のカンヌ映画祭でサントラの最高賞UCMFアワードを受賞。2010年、ナディーン・ラバキー監督作『Where Do We Go Now』の音楽を担当し、2011年のストックホルム国際映画祭で最優秀音楽賞を受賞している。
※『キャラメル』の後、ラバキー監督と結婚している。

INTERVIEW

ナディーン・ラバキ―監督インタビュー
―― なぜ『Capharnaüm(カペナウム)*』という題名を付けたのですか? 私の意識していないところで、題名が自ら名乗り出てきたという感じだった。この作品について考え始めていた頃、私の夫のハーレドが、取り上げたいテーマや、自分が夢中になっていることを全て書き出したらいいと言ってきた。私たちの居間の真ん中にあるホワイトボードにね。私はいつもこの方法でアイディアをふくらませていく。その後、しばらくして、ホワイトボードを見直していた時、「それらの総体性が、まさにカペナウムであった。これは、カペナウムの映画よ」って夫に言ったのです。

*アラビア語でナフーム村。フランス語では新約聖書のエピソードから転じて、混沌・修羅場の意味合いで使われる。 ―― 最初にホワイトボードに書き出したのはどんなテーマでしたか? 私が映画を作る時はいつも、「すでに確立しているシステム」と、「その矛盾」を問う必要性があると思っている。さらに、「その代わりとなるシステム」を想像する必要もある。 当初、私の頭の中にあったテーマは、不法移民、不当な扱いをされる子供たち、移民労働者、国境という概念とそのばからしさ、自分たちの存在を証明するために紙切れ(証明書類)が必要であるという事実、必要であらばその書類を無効にすることもできるという事実、人種差別、相手に対する恐怖、子どもの権利条約への無関心… ―― しかし、あなたは今回、幼少時代に焦点を当てることにしましたね? このブレインストーミングと並行して、不当に扱われている子供たちを中心に描こうという考えが生まれた。私がちょうど、こういったアイディアに取り組んでいた時期に悲痛な出来事があった。ある日の夜中の1時頃に帰宅する途中、赤信号で止まって車の窓から見下ろすと、母親の腕の中で半分、寝かけている子供が見えた。母親は、路上で物乞いをしていた。一番、私にとって衝撃だったのは、その2歳児が泣いていなかったということ。とにかく眠りたい、という感じだった。彼の目が閉じていくイメージが頭から離れなくて、帰宅した後、その残像をどうにかしたいと思った。そこで、大人に向かって叫んでいる子供の絵を描いたの。自分からすべての権利を奪っていく世の中に自分を産み落とした親を憎んでいるかのように親を罵倒している子供の顔をね。そこから、この作品のアイディアはどんどん膨らんでいった。子供時代を出発点にした。人生が形成されるのは明らかに子供時代なわけだから。 ――あなたの作品は、基本的に人々にどういった「行動」を促しているのでしょう? 第一に、映画は疑問を投げかけるためのツールだと思っている。私が生きている世界に対する私の見方を表現しながら、現代のシステムについて自分自身に問いかけるもの。 私の映画は――特に今回の『存在のない子供たち』は、目を逸らしたくなるような生々しい現実を描いている。私は、映画の力を信じていると同時に、大変な理想主義者でもある。映画には、たとえ何かを変えることはできないとしても、少なくとも、何かの話し合いのきっかけになったり、人々にとって考えるきっかけになると確信している。 路上で見かけた子供の運命をただ嘆き悲しんで、さらなる絶望感に襲われる代わりに、私の職業を武器として利用し、あの子供の将来に何かしらの影響を与えられることを願うことにした。少しでも現在の状況を人々に知ってもらおうと。引き金となったのは、ベイルート(やその他の大都市)の裏の顔にスポットライトを当てなければならない、自分たちの定められた運命かのように極貧生活から逃れることのできない人たちの生活の中に潜入しなければならない、という私の使命感。 ―― 出演している役者たちは、物語の登場人物と似たような境遇にいる人達ばかり。なぜ、このようなキャスティングをしたのですか? ゼインの演じる役は、ゼインの実際の境遇と似ている(いくつかの点で)。その点ではラヒルも同じ。彼らは、戸籍を持っていない人達。ゼインの母親に関しては――16人の子供を持つある女性がモデルで、映画と同じような状況下で暮らしていた。そのうちの6人は死んでしまった。その他の子供たちは、彼女には育てることができなかったから孤児院に預けられた。ゼインの母親を演じた女性も、実際に自分の子供たちに食事として与えているのは砂糖と角氷。今回のキャスティングは、裁判官でさえも、本物の裁判官を使った。私だけが自分とは違う人間を演じていた。だからこそ、私の役(ゼインの弁護士)は最小限にとどめたかった。 アクティングで使う「プレイ(演じる)」という言葉は、私にとっては問題。特に今回の映画では、全く偽りがないことが非常に重要だったから。ある人たちにとっては、この映画は彼らの大義名分のための旗印の役割をする。だから、偽りがないものにすることは、その人たちに対する私の義務だった。この映画で描く状況を、演じる側もちゃんと理解していることが重要だった。それは、彼等が自分たちの目指すものについて語るときに、ある種の正当性を持って語ることができるようにね。でなければ、こんな重い人生を背負いながら地獄のような場所で生きている人たちを、役者が演じるのは無理だったと思う。 私はこの映画には何かしらの力が働いていたと確信しているのだけど、すべてが最終的にうまくまとまったから。私がキャラクターを生み出していくと、その人物が実際に路上に現れ、キャスティング・ディレクターが彼らを見つけ出してくれた。私は、演者たちに「ありのままでいい」と言い聞かせただけだった。彼らの中にある真実だけで十分だったから。私は彼等に魅了された。彼等そのものの虜になってしまいそうだった。彼等の話し方、反応の仕方、動き方すべて。この映画が自分を表現する場になってくれたという意味では、とても嬉しかった。彼らの苦しみを、表に出すことができたのだから。 ―― この映画をドキュメンタリーと考えますか? 私がリサーチ中に目撃し、経験した事柄を盛り込んだフィクション。ファンタジーでも、想像したものでもない。それとはむしろ真逆で、映画の中で見る光景は、私自身が貧困地域、拘置所、少年院を訪れた結果を表している。私は一人でそれらの場所を訪れた。この映画を撮影するまでに3年間のリサーチ期間が必要だった。このテーマを自分なりに消化する必要があったし、その状況を実際に生きたかのように、自分の生の目ですべてを見たかった。撮影は、街の貧困地域で、今まで同じような悲劇を何度も目撃してきた壁の間で行われた。セットは最小限にとどめ、役者たちには、「飾らず、ありのままで」ということを伝えた。 作品をよりよくするために、彼らが体験する出来事だけは演出した。だからこそ、撮影は6ヵ月もかかって最終的に収録テープが520時間にもなってしまった。 ―― 『存在のない子供たち』はレバノン映画だと考えていますか? プロダクションと撮影場所を考慮したら、これは間違いなくレバノン映画。でも、物語自体は、基本的な権利が与えられず、教育、愛までも受けることができない全ての人たちへ向けたもの。この登場人物たちが生きる暗い世界は、来るべき時代を表すもので、世界中にある大都市すべての行く末なのです。 ―― 今後、この映画を通してどのようなことを達成したと思っていますか? 不当に扱われ、放置された子供たちを守ってくれるような仕組みの基礎を築くような法案作りを促すことができればいいな、というのが私の究極の夢です。

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