映画「存在のない子供たち」公式サイト » INTERVIEW

── なぜ『Capharnaüm(カペナウム)』という題名を付けたのですか?

私の意識していないところで、題名が自ら名乗り出てきたという感じだった。この作品について考え始めていた頃、私の夫のハーレドが、取り上げたいテーマや、自分が夢中になっていることを全て書き出したらいいと言ってきた。私たちの居間の真ん中にあるホワイトボードにね。私はいつもこの方法でアイディアをふくらませていく。その後、しばらくして、ホワイトボードを見直していた時、「それらの総体性が、まさにカペナウムであった。これは、カペナウムの映画よ」って夫に言ったのです。

アラビア語でナフーム村。フランス語では新約聖書のエピソードから転じて、混沌・修羅場の意味合いで使われる。

── 最初にホワイトボードに書き出したのはどんなテーマでしたか?

私が映画を作る時はいつも、「すでに確立しているシステム」と、「その矛盾」を問う必要性があると思っている。さらに、「その代わりとなるシステム」を想像する必要もある。

当初、私の頭の中にあったテーマは、不法移民、不当な扱いをされる子供たち、移民労働者、国境という概念とそのばからしさ、自分たちの存在を証明するために紙切れ(証明書類)が必要であるという事実、必要であらばその書類を無効にすることもできるという事実、人種差別、相手に対する恐怖、子どもの権利条約への無関心…

── しかし、あなたは今回、幼少時代に焦点を当てることにしましたね?

このブレインストーミングと並行して、不当に扱われている子供たちを中心に描こうという考えが生まれた。私がちょうど、こういったアイディアに取り組んでいた時期に悲痛な出来事があった。ある日の夜中の1時頃に帰宅する途中、赤信号で止まって車の窓から見下ろすと、母親の腕の中で半分、寝かけている子供が見えた。母親は、路上で物乞いをしていた。一番、私にとって衝撃だったのは、その2歳児が泣いていなかったということ。とにかく眠りたい、という感じだった。彼の目が閉じていくイメージが頭から離れなくて、帰宅した後、その残像をどうにかしたいと思った。そこで、大人に向かって叫んでいる子供の絵を描いたの。自分からすべての権利を奪っていく世の中に自分を産み落とした親を憎んでいるかのように親を罵倒している子供の顔をね。そこから、この作品のアイディアはどんどん膨らんでいった。子供時代を出発点にした。人生が形成されるのは明らかに子供時代なわけだから。

──あなたの作品は、基本的に人々にどういった「行動」を促しているのでしょう?

第一に、映画は疑問を投げかけるためのツールだと思っている。私が生きている世界に対する私の見方を表現しながら、現代のシステムについて自分自身に問いかけるもの。

私の映画は――特に今回の『存在のない子供たち』は、目を逸らしたくなるような生々しい現実を描いている。私は、映画の力を信じていると同時に、大変な理想主義者でもある。映画には、たとえ何かを変えることはできないとしても、少なくとも、何かの話し合いのきっかけになったり、人々にとって考えるきっかけになると確信している。

路上で見かけた子供の運命をただ嘆き悲しんで、さらなる絶望感に襲われる代わりに、私の職業を武器として利用し、あの子供の将来に何かしらの影響を与えられることを願うことにした。少しでも現在の状況を人々に知ってもらおうと。引き金となったのは、ベイルート(やその他の大都市)の裏の顔にスポットライトを当てなければならない、自分たちの定められた運命かのように極貧生活から逃れることのできない人たちの生活の中に潜入しなければならない、という私の使命感。

── 出演している役者たちは、物語の登場人物と似たような境遇にいる人達ばかり。なぜ、このようなキャスティングをしたのですか?

ゼインの演じる役は、ゼインの実際の境遇と似ている(いくつかの点で)。その点ではラヒルも同じ。彼らは、戸籍を持っていない人達。ゼインの母親に関しては──16人の子供を持つある女性がモデルで、映画と同じような状況下で暮らしていた。そのうちの6人は死んでしまった。その他の子供たちは、彼女には育てることができなかったから孤児院に預けられた。ゼインの母親を演じた女性も、実際に自分の子供たちに食事として与えているのは砂糖と角氷。今回のキャスティングは、裁判官でさえも、本物の裁判官を使った。私だけが自分とは違う人間を演じていた。だからこそ、私の役(ゼインの弁護士)は最小限にとどめたかった。

アクティングで使う「プレイ(演じる)」という言葉は、私にとっては問題。特に今回の映画では、全く偽りがないことが非常に重要だったから。ある人たちにとっては、この映画は彼らの大義名分のための旗印の役割をする。だから、偽りがないものにすることは、その人たちに対する私の義務だった。この映画で描く状況を、演じる側もちゃんと理解していることが重要だった。それは、彼等が自分たちの目指すものについて語るときに、ある種の正当性を持って語ることができるようにね。でなければ、こんな重い人生を背負いながら地獄のような場所で生きている人たちを、役者が演じるのは無理だったと思う。

私はこの映画には何かしらの力が働いていたと確信しているのだけど、すべてが最終的にうまくまとまったから。私がキャラクターを生み出していくと、その人物が実際に路上に現れ、キャスティング・ディレクターが彼らを見つけ出してくれた。私は、演者たちに「ありのままでいい」と言い聞かせただけだった。彼らの中にある真実だけで十分だったから。私は彼等に魅了された。彼等そのものの虜になってしまいそうだった。彼等の話し方、反応の仕方、動き方すべて。この映画が自分を表現する場になってくれたという意味では、とても嬉しかった。彼らの苦しみを、表に出すことができたのだから。

── この映画をドキュメンタリーと考えますか?

私がリサーチ中に目撃し、経験した事柄を盛り込んだフィクション。ファンタジーでも、想像したものでもない。それとはむしろ真逆で、映画の中で見る光景は、私自身が貧困地域、拘置所、少年院を訪れた結果を表している。私は一人でそれらの場所を訪れた。この映画を撮影するまでに3年間のリサーチ期間が必要だった。このテーマを自分なりに消化する必要があったし、その状況を実際に生きたかのように、自分の生の目ですべてを見たかった。撮影は、街の貧困地域で、今まで同じような悲劇を何度も目撃してきた壁の間で行われた。セットは最小限にとどめ、役者たちには、「飾らず、ありのままで」ということを伝えた。

作品をよりよくするために、彼らが体験する出来事だけは演出した。だからこそ、撮影は6ヵ月もかかって最終的に収録テープが520時間にもなってしまった。

── 『存在のない子供たち』はレバノン映画だと考えていますか?

プロダクションと撮影場所を考慮したら、これは間違いなくレバノン映画。でも、物語自体は、基本的な権利が与えられず、教育、愛までも受けることができない全ての人たちへ向けたもの。この登場人物たちが生きる暗い世界は、来るべき時代を表すもので、世界中にある大都市すべての行く末なのです。

── 今後、この映画を通してどのようなことを達成したと思っていますか?

不当に扱われ、放置された子供たちを守ってくれるような仕組みの基礎を築くような法案作りを促すことができればいいな、というのが私の究極の夢です。